パイパー戦闘団の戦い


パイパー戦闘団の進撃経路
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12月16日

午前5時、ドイツ軍の火砲約2000門がアルデンヌの森に接する連合軍の全線約140kmに渡って砲撃を開始した。この時、パイパーは第12国民擲弾兵師団長エンゲル少将の司令部にいて第12国民擲弾兵師団の攻撃を見守りながら自分の戦闘団の進撃するタイミングを見計らっていた。しかし、入ってくる通信が期待通りの戦果を挙げていないのが判明すると午後2時に落胆しながら司令部を後にした。



「大渋滞」一方、パイパー戦闘団本隊はブランケンハイムの森林地帯の集結地から前進を開始していたがシャイトの近くでSS第1戦車師団や第12国民擲弾兵師団、第3降下猟兵師団の進撃する多くの部隊の大渋滞に巻き込まれた。(まだ一発も撃っていない馬に牽引された火砲まであった!)シャイトからロスハイムまでの道路は一列渋滞となって全く動かなかった。午後2時30分頃に部隊に合流したパイパーはこの状況に激怒して、邪魔なのものはすべて道路外に出せと命令した。


パイパー戦闘団は夕方遅くになる頃にロスハイム近くで幹線道路に戻り、午後10時には、先発していたSS第501重戦車大隊に追いつき、ロスハイムで合流した。ここで、部隊を再編し兵力を前進させる用意が出来た。

SS第1戦車師団本部より、第3降下猟兵師団が村の南で突破に成功し、その配下の第9降下猟兵連隊が、現在ランツェラート西方で戦闘中との報告を受けた。パイパーはそこから突破を試みるべく、配下のSS第10装甲擲弾兵中隊を先頭に立てて前進を開始した。しかし、ロスハイムから南には、大量の地雷が埋設されており、パイパーは工兵部隊の遅れにもかかわらず、そのまま前進を命じ、数輌の戦闘車輌を地雷の犠牲にしながら貴重な時間を節約した。

パイパー戦闘団は午後12時前にランツェラートに到着し、パイパーは第9降下猟兵連隊長のホフマン大佐と会った。パイパーは、ここで地上戦闘経験のないホフマン大佐を感服させて連隊の第1大隊を差し出させたと、多くの本に記述されているが、パイパーが強引に要求しただけでなくSS第I戦車軍団司令部からからの命令によるものである。

 

12月17日

「闇夜の前進」午前0時から1時にかけて、2輌のパンターを先頭にランツェラートを発ち予定通り前進路Dを進んでいた。パイパー戦闘団は灯火管制を敷きながら、各車の両側に降下猟兵がつき白いハンカチを目印に車輌を誘導した。午前5時頃、部隊はブッフホルツの村を通過。この村は、これより前に第9降下猟兵連隊の偵察隊が奪取していた。

午前6時頃、パイパー戦闘団は、ホンスフェルトに突入した。その夜の間中、ひっきりなしにアメリカ軍車輌が村を通過しており、パイパー戦闘団の先頭の戦車はなんとアメリカ軍車輌の後についてそのまま村に入ったのだった。その時、村には第99歩兵師団と第14騎兵グループの兵員がいたが突然現れたドイツ軍に驚き、大部分は必死に村から脱出するところを捕らえられ砲や車輌も捕獲された。その数、対戦車砲15門あまり、トラック80輌、ハーフトラックなどの偵察車50輌。

夜明けになるとアメリカ軍戦闘爆撃機1個飛行隊がパイパー戦闘団の上空に飛来して攻撃してきた。ヴィルベルヴィントが応射し、数機を撃墜したもののブッフホルツ駅近くに配備されたヴィルベルヴィント1輌が撃破された。

「敵影」ホンスフェルトの村外れでパイパーは前進路Dから少し外れて迂回路を取ることにした。ホンスフェルトから西の道路状況はひどい泥濘状態で、しかも燃料もすでに残り少なくなっていた。パイパーはビュリンゲンにアメリカ軍の燃料集積所があると見てそこで給油することに決めた。午前8時頃、パイパー戦闘団はわずかな抵抗だけでビュリンゲンに入り、目指す燃料集積所を発見した。ただちに捕虜50人に燃料約5万ガロンを部隊の車輌に給油した。

午前9時30分頃、5キロほど離れたビュットゲンバッハ付近に布陣するアメリカ軍砲兵隊がビュリンゲンに対し激しい弾幕射撃を開始した。パイパー戦闘団から小規模な偵察隊をビュットゲンバッハおよび北方のヴィルツフェルト方面へ送ったが抵抗に会い引き返してきた。

パンツァーファウスト「戦利品」午前10時、パイパー戦闘団の先頭部隊はビュリンゲンを出発し所定の前進路Dを通って南西のメーデルシャイトへ向かった。この時点でパイパー戦闘団の前進を遅らせるのは道路状況だけであった。道は細くぬかるんで、場所によっては装輪車輌はかなりの距離を牽引してやらなければならなかった。メーデルシャイトでわずかな抵抗を受けただけで、正午に先頭部隊は、ティリモンに達した。ティリモンからリニュービルへは1本道がまっすぐ続いていたが、これもまた軟弱な泥道だったので、パイパーは北方の路面の硬い道路に出るように転進し、途中、米軍の小部隊と小競り合いがあったものの午後2時前にリニュービルへ突入した。パイパーは捕虜からリニュービルにアメリカ第49高射砲旅団本部があると聞いており、本部ごとごと捕虜にするつもりであったが、惜しくもその10分程前にアメリカ第49高射砲旅団長エドワード・J・ティンバーレイク准将とその幕僚達はリニュービルを脱出していた。

リニュービルに2時間ほど止まって再編成後、パイパー戦闘団は再び西進し、ポンおよびボーモンの村を抵抗を受けずに抜けた。この時、パイパー自身は、SS第1戦車師団長ヴィルヘルム・モンケSS准将と会議していたため前線にいなかった。モンケSS准将はリニュービルに前進し、数時間前にティンバーレイク准将が去ったホテル・デ・ムーランに師団本部を設けた。

午後7時30分頃、パイパー戦闘団の先頭部隊はスタブローに突入したものの、アメリカ軍と小戦闘後、町の東のヴォー・リシャールの高台に後退して野営し翌朝まで前進しようとしなかった。この慎重な行動は、パイパーが前線にいなかったためであると考えられる。その夜、アメリカ軍はスタブローの町の中にいくつかの対戦車砲を配備した。

 

12月18日

午前6時30分、前線に戻ったパイパーは砲兵の準備射撃をもって攻撃を再開した。この砲撃でアメリカ軍の配備された多くの対戦車砲や砲兵が粉砕されたが、予備の2門の対戦車砲を配置に付けた。

午前8時頃、パイパー戦闘団の戦車は再びスタブローに突入したが、アメリカ軍の予備の対戦車砲によりパンター部隊である第1中隊長クレンサーSS大尉が重傷を負い、パイパーはヘンネッケSS中尉に部隊を引き継ぐように命令した。しかし、30分程で先頭部隊は町の橋を無傷で占拠し通過した。パイパー戦闘団は、通行に必要な街路沿いからアメリカ軍を追い払いながらも、掃討に時間をかけず午前10時には、スタブローを後にトロワ・ポンへ向い始めていた。

昼頃、パイパー戦闘団の後衛部隊の一つがスタブローに接近中の航空攻撃に遭い、道は損傷した車輌で塞がり部隊が再び前進出来たのは午後3時頃であった。その後、SS第501重戦車大隊のケーニッヒ・ティーガーがスタブローでアメリカ軍歩兵により対戦車砲で攻撃された。対戦車砲はケーニッヒ・ティーガーの分厚い装甲を破ることはなかったが、誤って建物に突っ込み行動不能になった。ドイツ軍は前進に使えるだけの最低限の街路しか抑えていなかったのである。

トロワ・ポンは「3つの橋」という意味でその名が村の名前になっている通り、3本の橋がかかっていた。ここで、前進路DとEが一旦合流しており、パイパーはここでアンブレーブ川を渡り前進路Dを捨てより進みやすい前進路Eをとるように決めていた。そのためこの村のアンブレーブ川の橋は重要な奪取目標であった。パイパーは橋の奪取に確実を期すため二方向からトロワ・ポンに対して攻撃を開始した。

午前10時45分頃、先頭部隊がトロワ・ポンの突入したが、午前11時15分、アンブレーブ川の橋がアメリカ軍の工兵により爆破された。このため、パイパー戦闘団は本来の前進路Dを取らざるをえなくなり、ラ・グレーズに向うことになった。

トロワ・ポンからラ・グレーズまでパイパー戦闘団は無抵抗で前進し、午後1時には後衛部隊がトロワ・ポンを通過した。そしてパイパーが派遣した先遣隊がシェヌー近くでアンブレーブ川にかかる橋を無傷で奪取した。アメリカ軍工兵隊はこの橋の爆破命令を受けておらず、これがアメリカ軍防衛線に開いた穴となり、パイパー戦闘団はこの橋を午後2時頃に渡り始めた。ちょうど先頭部隊がこの橋を渡ったときに、連合軍の戦闘爆撃機が現れ空襲にさらされた。ヴィルベルヴィントが反撃したものの、部隊は橋とシェヌーの間の森に隠れねばならず、部隊が前進を再開できたのは午後4時くらいであった。

パイパーは、アンブレーブ川を渡ったことにより前進路Eによってミューズ川に達するつもりであった。ミューズ川に出るまで残る橋は、ウールト川にかかるアモワールの橋と小さなリエンヌ川のヌフ・ムーランの橋の2つであった。

午後4時30分、ヌフ・ムーランの橋に近づいた時、先頭部隊と共にいたパイパーの目の前で橋がアメリカ軍工兵隊によって爆破された。パイパーは北と南に偵察隊を送り、戦車が通行可能な頑丈な橋を探させたがアメリカ軍と遭遇し遂に発見できなかった。パイパー戦闘団は、爆破された橋を補強する重架橋資材を保有しておらず、パイパーは部隊に対しラ・グレーズで再び前進路Dに戻るように命じた。こうして午後11頃、先頭部隊はラ・グレーズとストゥーモンの間の森で停止した。

SS第1戦車師団長モンケSS准将は、パイパー戦闘団の南側の前進路Eを進む予定のハンセン戦闘団が、何ら前進を果たしていないため、前進路Eの第二波として待機中であったSS第1機甲偵察大隊を強化したクニッテル戦闘団に対してパイパー戦闘団の支援に向わせるように命じた。この頃、スタブローはアメリカ軍によって圧迫を受けていたが、クニッテル戦闘団は構わずに前進を続け真夜中近くにラ・グレーズ近くでパイパー戦闘団の本体と合流した。

午後8時頃には、アメリカ軍は、ドイツ軍がわずかな部隊で抑えていたスタブローの本道も制圧し、パイパー戦闘団はついに後方を遮断されてしまった。


 

12月19日

SS第I戦車軍団長ヘルマン・プリースSS中将は、今や西進する最大のチャンスはパイパー戦闘団にあると知り、SS第1戦車師団の全力をあげてパイパー戦闘団を支援するように命じた。前進路Dの第二波であるサンディッヒ戦闘団は、スタブローのアメリカ軍に前進を阻まれていた。それでもSS第2機甲擲弾兵連隊の第2大隊が大きく迂回し、12月20日の昼頃にラ・グレーズに到着したが、これがパイパー戦闘団にたどり着いた最後の増援兵力となった。

「最後の攻撃」クニッテル戦闘団の増援を得たパイパーは、夜明け前に部隊を集結させ午前9時にストゥーモンに対して攻撃を開始した。朝霧に紛れてストゥーモンに近づき、2時間にわたる戦闘の結果、アメリカ軍は死傷者約250名を出し約100名が捕虜となり、アメリカ軍の防衛線は突破された。

パイパーは、退却するアメリカ軍を追撃し、ただちに偵察隊をストゥーモンの西約3キロ先の駅へ向わせた。しかし、アメリカ軍はその駅を足場に反撃の準備をしており、午後3時30分頃、駅へ向った3輌のパンターが至近距離からの攻撃で相次いで撃破された。この戦闘の場所がパイパー戦闘団の達した最も西の地点となった。これ以上の前進が出来ないのは補給の事情であり、もはや現在の場所を保持することしか出来なかった。

午後になるとストゥーモンは絶え間ない激しい砲撃にさらされ、日没が近づくにつれて町の西側の戦闘は激しくなりパイパーは、村の外れまで部隊を後退させた。

 

12月20日

この頃には、アメリカ軍もパイパー戦闘団の侵攻が最も危険とみなし、一帯の兵力の再編成を行い、いくつかのタスク・フォースがパイパー戦闘団に圧力をかけてきた。これらの部隊により増援に向っていたSS第1機甲砲兵大隊の一部も、パイパー戦闘団に合流することなく撃破された。完全に孤立化されたパイパー戦闘団ではあったが、各個所でのアメリカ軍との激しい戦闘は続いていた。


 

12月21日

SS第I戦車軍団では、アメリカ軍の反撃が次第に強力なものになってくる状況をつかんでいたが、第6戦車軍によってパイパー戦闘団の後退は、拒否された。SS第I戦車軍団は、パイパー戦闘団に空から補給物資を投下するように空軍に要請した。

パイパー戦闘団は、ラ・グレーズ周辺の狭い地域に閉じ込められる形となった。昼頃、パイパーは各部隊の指揮官を集め状況分析を行い、手持ちの全部隊をラ・グレーズ周辺に集中させることに決定した。ストゥーモン周辺からの撤退は、何の抵抗も無く行われたが、アンブレーブ川の渡河地点では、家の一軒一軒をめぐる激闘が続けられた。

 

12月22日

ラ・グレーズのパイパー戦闘団に対するアメリカ軍砲兵隊の攻撃は、昼夜にわたって続けられた。村の東ではケーニッヒ・ティーガー1輌と4号戦車2輌がアメリカ軍の攻撃をすべて撃退していた。村の別の外れでは家一軒毎に激しい戦闘が続いていた。午後になって戦闘はおさまったが、パイパー戦闘団は、いよいよ燃料と弾薬を使い果たし、糧食は、攻撃初日から届いていなかった。

午後8時頃、SS第I戦車軍団が要請した空軍による補給品投下が行われた。約20機の航空機から投下された物資のほとんどがすでにアメリカ軍の手中にあったストゥーモン上空で投下され、パイパー戦闘団に届いたのは、全体の10%程度であった。特に燃料は余りにも少量で、無線機を働かせておくのと1〜2輌の戦車を射撃位置に付かせるだけで終わってしまった。

パイパー戦闘団には知らされていなかったが、SS第I戦車軍団は第6戦車軍からこれ以上の空からの補給は期待出来ないと教えられていた。この日が終わる頃には。SS第1戦車師団によるパイパー戦闘団を救出する試みはすべて放棄されてしまった。しかしSS第I戦車軍団によるパイパー戦闘団の後退の要請は、第6戦車軍によって再び却下された。

 

12月23日

今やパイパー戦闘団の占拠しているのは、ラ・グレーズの村の外側のわずか地域であった。それでも何度かの攻撃を防いでいたが、もはやその地域も持ちこたえることも出来なくなった。午後5時、ついにパイパー戦闘団をこれ以上支援できないと確信したSS第I戦車軍団はパイパー戦闘団に対し、東へ向けて脱出せよと命じた。パイパーは各指揮官を指揮所に呼び集めその夜の脱出計画の作成に取りかかった。もはや戦って切り抜けるだけの燃料、弾薬はなく、すべての車輌、重火器、捕虜、負傷兵を置き去りにして徒歩で脱出する以外に他なかった。

 

12月24日

午前2時頃、パイパーは戦闘団の約800人を率いて徒歩にて脱出を開始した。ラ・グレーズには少数の後衛部隊が残り、パイパー戦闘団の残された戦車や車輌を破壊しアメリカ軍をくいとめた。途中、小規模な戦闘があったものの夜明けには、770人がSS第1戦車師団の本体と合流することに成功したのだった。

 

後日1945年1月11日、パイパーは、このアルデンヌの戦績により、剣付き騎士十字章を授与された。「ラインの守り」作戦でこのクラスの勲章を授与されたのはパイパー唯一人であった。