クルト・マイヤー (Kurt Meyer)
1910年12月23日、ブラウンシュヴァイクのエルキスハイム生まれ。最終軍歴はSS少将。モーターサイクル部隊を率いての機動力を巧みに生かした優秀な指揮によって、「パンツァー・マイヤー」、「韋駄天マイヤー」との異名で呼ばれた。34年に「親衛旗アドルフ・ヒトラー」連隊に入隊。36年に戦車猟兵中隊長に就任し、39年の対ポーランド戦に参加。その後、モーターサイクル中隊長として40年の対フランス戦に参加。その後もバルカン半島、東部戦線と転戦し功績を挙げる。43年7月、SS第12戦車師団「ヒトラー・ユーゲント」の新編成のために転属、同師団の第25装甲擲弾兵連隊長となる。44年6月、ノルマンディーの戦いにて、師団長のフリッツ・ヴィット将軍が戦死、同師団長。9月にベルギーのレジスタンスに囚われて捕虜となる。戦後は、戦犯裁判にて終身刑を言い渡されるも、ノルマンディーにて敵として戦ったカナダ軍将兵の尽力により、10年にて釈放。1961年12月23日、51回目の誕生日に死去。 1945年以降、武装SSが憎悪の大波に浸されたのは周知の如く。そんな中で、死んだ戦友とその遺族、生存者達の代弁をする義務があると感じ、1956年にHIAG(旧武装親衛隊員相互扶助協会、1950年設立)の初代スポークスマンに就任。残念ながらマイヤーが生存中にその目的が達せられることはなかったが、その活動の奔走中での突然の死去に際し、4000名を超える人々が葬儀に集まった。ちなみにクルト・マイヤー未亡人は、年金も軍人未亡人恩給も受けていない。 |
ドラゴンのクルト・マイヤーです。箱絵にある"MARIUPOLI"(マリウポリ)とは、ウクライナ地方にある都市。1941年、マイヤー率いるほんの一握りの部隊(大隊規模)が強襲によって占領、当時の「親衛旗アドルフ・ヒトラー」旅団本部もマイヤーからの占領報告を誤りだと思ったくらいの大戦果をあげた都市です。それにしてもフィギュアの方は、あまりにも笑い顔になり過ぎですね。まあ、見方によるんでしょうけど・・・
1/35では、上記のように"PANZERMEYER LSSAH DIVISION"となっています。これは、誤りだと思われます。「親衛旗アドルフ・ヒトラー」は、前述のように1941年のこの当時は旅団規模で、師団に昇格したのは、翌1942年です。したがって”DIVISION"ではなく”BRIGADE"が正解じゃないでしょうか?
クルト・マイヤーに関しての最大の資料は、自身の著のこの「擲弾兵("Grenadiere")」でしょう。武装親衛隊の兵士の代弁を兼ねていると思われる部分が多々あり、HIAGの活動の一環だと捉えられますが、もちろん戦記として秀逸だと思います。ちなみにこの画像の本は、フジ出版社の昭和51年の初版本で、ページによっては恐る恐る開いてます・・・(^^;
参考文献
「グラフィックアクション WW2 ドイツ軍人プロファイル」
文林堂刊
「擲弾兵」
フジ出版社刊